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一冊に凝縮!司馬遼太郎の魅力

司馬遼太郎スペシャル 2016年3月

 

 最近は司馬史観というふうに括られ、司馬遼太郎歴史観を批判するような言説も目立つ。 だがそれはやはり司馬遼太郎の作品が日本人に愛され続けてきたことの裏返しでもある。 我々は司馬史観と揶揄されるほどに司馬の考え方に納得し、その考え方を知らず受け容れてきたところがあり、それは司馬の作品に触れていない人でさえ、司馬の影響を受けた作家や周囲の人々に影響されて、そうした考え方に慣れてしまっているところがある。

 そんな司馬作品の魅力をわかりやすく紹介するのが本書。

 

    ◆◇◆

 

 まず著者は冒頭で司馬を日本人の歴史観を規定した数少ない人物として評価する。 そして司馬の文学の特徴を動態の文学として提示し、歴史の激動を描くそのダイナミズムに本領があると論じる。

 時代のダイナミズムを描く司馬文学の代表として本書はまず『国盗り物語』を挙げる。 斎藤道三織田信長明智光秀という人物を通して描いていくことで司馬の文学のダイナミックな構図が明らかになると著者は言う。 この作品の中で信長は徹底的な合理主義者として描かれるが、それを光秀という旧来の秩序観を体得しよく理解している人物の視点から描くことで、信長の時代を超えた異常とも思える個性が浮き彫りされていく。 道具的なものとして人を使う信長、それにうまく適応して道具としての自らを高めていく秀吉、そして本心を隠した処世術に長けた家康。

 こうしたイメージは同時に現実の高度経済成長における人々の自己意識と重なり、共感を呼んだと著者はいう。 今風に言えば社畜などとも形容されそうな高度経済成長からバブル期のいわゆる「モーレツ社員」は自らのイメージを秀吉に重ね、戦後復興と経済成長の中で合理化していく社会に司馬文学の戦国時代で実現されていく合理性を重ねる。 司馬文学のダイナミズムはある意味世界の中で経済大国として成り上がっていく日本の姿に重なるものであったのだろう。

 

 次に著者は、幕末期を描く『花神』からは日本人にある現実主義、思想にかぶれないリアリズムを司馬から切り取っている。 司馬に見えていた日本人の本質はイデオロギーやドグマとは対極にある現実主義にあるが、ときにそれを忘れて酩酊するときに道を踏み外す。著者によれば司馬にはつねに思想に対する警戒感があり、そして歴史の変革は既存の固定観念や形式主義を打破する合理的な精神によってもたらされると考えていたのだという。

 そして司馬の描く作品での明治期と昭和期はこうしたリアリズムと合理性に照らせば、まさに対比的に描かれていると著者は注意を向ける。 『坂の上の雲』での秋山真之乃木希典という二人の格調高いリアリストの、しかし対比的なリアリズムに注意を促し、秋山に明治の健全で合理的なリアリズムを、乃木に昭和的な軍国主義につながる不合理なリアリズムを見ているという。 ともに公共を大切にする格調高い精神を持ちながら、秋山は現実をしっかり見据えるのに対し、乃木は現実を直視しない方向へとつながってしまう。 そうした精神は日本では歪んだ大衆エネルギーとなって表れたと司馬は考えていたという。

 日露戦争で本来は辛勝だったにも関わらず大勝と誤解し、大国意識が国民の間にもたげ、さらに日露戦争の奇跡的な勝利が神国思想と結びついて不敗神話のようなものを作り、現実を無視するようになる。ナショナリズムが近隣諸国に対する優越意識に変わっていき、謙虚を忘れた傲慢が時代を支配するようになって勝てない戦争に突っ走った。

 

 司馬が他者を思いやる共感性と自己の確立を結びつけたのはこうした歴史観察に則ってのことであると著者は言い、司馬のメッセージとして読者に伝えて締めくくる。

 

    ◆◇◆

 

 さて、ここで個人的な話になるが、中学高校と司馬の文学が長期休暇の課題図書となることもあり、また司馬遼太郎という名前に一種の教養性があったせいかネームバリューで選んでいたこともあって、司馬の作品はだいぶ読んできた。 だが私にとって、山本周五郎藤沢周平ほど、じつは司馬の文学はあまり心に響かなかった。

 それがなぜだか今でも疑問に思うが、今回この本を読んで多少なりとも感じたことがある。 司馬の文学には匂いがない。つまるところ司馬の文学はあまりに共感され、そしてまるで共通認識のように日本人に住み着いてしまったせいか、その歴史観があまりに無臭で感動しないのである。

 司馬の言う信長の合理主義とか三英傑の人物像、幕末のリアリズムの勃興、明治の栄光、昭和の挫折、すべてがありきたりになってしまっているように思う。 また著者も書いていることであるが、司馬の人物の描き方は歴史のダイナミズムを強調するために一面的で戯画的であるのであり、非常に人工的でさえある。

 同時に司馬の描く世界観の根底には戦後世代の共通認識があると思われるが、それがもはや古くなっているのかもしれないという肌感覚がある。

 

 思いを巡らして気づいたが、司馬の描く日本のゴールはじつは田中角栄の政治にゆきつくのではないか。 道路を作り、地方と都市を繋げば日本全体が均衡して繁栄するような経済発展が拡大していくと唱え、実際にそのための合理的なシステムを用意した田中角栄。 彼こそ司馬の言う思想なき現実主義的日本的リアリストの最終形ではないか。

 だがいまや日本人はそうした田中角栄的な政治経済を乗り越え、新しい時代に進みつつある。 それは高度な経済成長に邁進していた司馬的な「動態」の社会ではなく、低成長にあえぐ「静態」に近い社会ではないか。

 

 そして司馬の歴史観が人々の共感を得られなくなったとき、そこにあるのは司馬が嫌った思想が頭をもたげてくる世界なのかも知れないという何か漠然とした不安ともとれぬものが心に浮かんだのである。

 

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司馬遼太郎スペシャル 2016年3月


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